味わう
今、とても虚しい気分です。
虚しいという言葉の意味が今日わかったので、余計虚しいです。
寂しいではなく「虚しい」。
虚しくも、「虚しい」という意味を端的に詳しく説明せよと言われても説明はできない。
手伝いというのは手伝いたいからするというものか。
そんな虚しさの中にいる私は自分の虚しさをウィスキーで飲んだ。
ウィスキーという言葉はどうも胡散臭く感じる。そしてオヤジの香り。
どうでもいいが虚しさは空気に消えた。
癒す力
例えば、猫のゴロゴロ鳴る喉。甘える時によく鳴らすのだが、実はあれはすごい力を秘めているようだ。
聞いた話によれば、治癒するらしい。治癒というのは文字通りの事で、怪我の治癒力を増加させるとか、といった事。
本当かどうかは知らないが、耳を近づけて聞いていると、どうも落ち着く。
母子の間では、それが意志の疎通となり、子猫を安心させるようで、それはつまり、安心しなさいとか、安心してるよというサインに違いない。
所謂、愛情表現である事は間違いないだろう。
愛情表現という事は、幸せを伝えようとしていいる事だと思うがいかがだろうか?
私は今幸せであるから、お前も安心して幸せでいなさい。
ここで少し踏み込んだ話をすると、前回の記事で、幸せホルモンや興奮を促すホルモン等が脳から分泌される事を言ったのだが、このホルモン(幸せホルモン、セロトニン)が出ると人は幸せな感情が沸き起こり、ほんわかとする。
そして、もう一つ、何かが発生する時というのは「エネルギー」が発せられるのはわかるだろうか?
「幸せ」と感じる時、自身の身体の内部にはもちろん、幸せなエネルギーが発生している。
それは表情や体温に現れる。
エネルギーというのはそこに留まらず体外へと流れて、またどこかに伝播する。
エネルギーは笑顔を作り、その笑顔は隣人に伝播する。
もし、意図的にそれをやろうとすると、実はいとも簡単に伝播することができる。
例えば、相手に大いに笑われてしまうと、こちらも笑わざるを得ないはずだ。
もしも一緒にいる人がネガティブな感情を発して空気が悪くなったら、幸せな気分を思い出し、そのエネルギーを外に、空間を取り囲むように意識すると、ネガティブは中和される。
エネルギーとはこういう事であり、コントロールも可能なのだ。
ここまで聞くと、ただのイカレタブットンダ話にしか聞こえないだろうが、この世界は実はそのようにできているのが真理である。
それを踏まえて考えてみると、猫のゴロゴロというのは、「幸せの発信」である。
しかしなぜ、現代人はそれを素直に感じる事ができないのかというと、常日頃、万人は頭の中で余計な考えを沢山持つからにすぎない。
もしも、猫の癒す力を信じる事ができるなら信じた方が良いと思うのは僕だけだろうか?
僕の考えを言うなれば、わざわざあなたの身近にある幸せを否定するなら、あなたはきっとドが付くほどのM体質なんだろうなと無理矢理納得して関わりを断ち切る。
愛する猫に寄り添ってみると、必ず喉を鳴らす。こちらの愛情にきちんと応えてくれているわけであるのだが、それをこちらが受け取るには、無用に湧き出る心配事や明日の事、はたまた今日怒られた事を全て消し去る必要がある。
嘘おっしゃいと言う方もいるでしょうが、猫達は事実そうやってお互いを癒し合っている。
猫の腹に顔を埋め、そのまま寝る事ができれば翌朝は少し軽い身体になっているだろう。
信じる者は救われる〜猫の心〜
ストレスが蔓延している現代社会においては、「癒し」というキーワードが、なかなかニーズのある事のように思えてくるのだが、その「癒し」っちゅうもんは猫からたんまりいただける事をご存知であろうか?
それをいくつかを例を挙げてみようかとおもう。
一つ、見るだけの癒し。
人は眼から情報をキャッチし、その信号を脳に送るわけですが、この視覚の情報というのは脳や心に物凄い影響がある事は周知の通り。
テレビなんぞが良い例で、ドラマなんか見ている人たちは、その物語が「あたかも実際に有る」と錯覚し擬似体験をする。
するとその物語がフィクションであろうがノンフィクションであろうが、お構いなしに「心配事」を抱えるようになる。
「ドラマチック」という言葉通り、ドラマチックな展開をテレビで放映し、娯楽として楽しむ物なのにそれは、
「実際に起こっている事」と勘違いさせてしまう力がある。
テレビもそうだが、視覚の情報はそれくらいに大きな影響力で作用する。
そこから得た情報は、アドレナリンだのセロトニンだのといった「感情ホルモン」が分泌される。
感情ホルモンの作用で興奮したりだとか、ほっこりしたりとなるのだ。
。
何が言いたいかというと「見るだけの癒やされる」というのはこれ(の事だと言いたいだけである)。
幸せホルモンというのが少なからず分泌される。
そのホルモンの種類については、各々でググって貰えると助かる。
わかりにくかったらそのうちまとめる。
僕は仕事から帰ってくると、出迎えてくれる猫を抱き上げ、モフモフの毛を撫でる。
飼えば、更に幸せホルモンが出てくる。胸のあたりがポワーンとする。
涙が出そうな、だけども幸せな感情がポワーンと。
「涙はそこからやってくる。心のずーっと奥の方。」
と歌う。
そう、その辺からムズムズっとやってくる。
それを毎日繰り返せば、それはずっと続く
冒頭に「ストレスの蔓延」と言った通り、今の世の中、これくらいの癒しではまだまだ癒されないくらいに根深い問題である事はわかっている。
だから、たかが猫を見て抱くだけで何が解決するんだ!?と嘆く声が沢山聞こえるのだ。
しかしここで、一つシンプルな考え方で実践してみたらいいと思うことがある。
皆、幸せになりたいと思っているだろうが、その事についてを簡単に言えば、「毎日の幸せの積み重ね」が未来の幸せに繋がる。
という考えを元に生活していただきたい。
色々と端折ってしまっているが、端折った部分は後に説明することにする。
僕はこの考え方を実践しており、猫が毎日の「幸福」を気づかせてくれる存在になっている。
いくつか猫の癒しを紹介しようと思ったのだが、一つ目の「見る癒し」にもう少し付け加えて、その他の癒しについてはまた次回にしようと思う。
動物というのはとても敏感で、特に猫というのは臆病であるという気質も加わって、常に警戒網を張り巡らせている。
野生においては敵が来れば逃げなければならないし、もしくは応戦するという暮らしぶりが常なのだから、第六感というのは非常に重要で、かつどの動物にもきちんと備わっている。
さて、世界中に植林をするため歩き回っていたイギリス人がいる。
今はもう老爺(にも関わらずたぶんめちゃくちゃ元気)だが、歩いて旅をして地球に植林をしていた若かりし日の彼は、死も覚悟するような危険な目にも遭っていたみたい。
山道を行けば熊にも出会うのは当たり前で。
彼は熊にも当然遭遇している。
驚き、怖くなりはしたものの、ある種の諦めの境地に至ったらしく、
彼が熊に出くわした時にとった行動は、
白旗を挙げて(実際挙げたら刻み殺されますが)大自然の一部になりきる。というものだった。
彼は心の底というより真に自然になりきった。
それが、敵意が無いこと表明する唯一の方法だった。
精神を一生懸命になだめて、ジッと何にも反応をせずにしたら、熊は何事もなかったかのように歩いて去ったらしい。
本当かどうかを知る術は本人に直接聞くしかないのだが、その経緯が書かれた本が出版されているので読んでみたら良いと思う。
しかし、もしそこで驚き慌てふためいていたら切り刻まれている事は誰にでもわかること。
動物というのは「感情」というエネルギーの反射に非常に敏感なのである。(人間も本来備わっているはずなのでいつか書いてみようと思う。)
野生でなくとも、動物というのは非常に敏感だから、あなたの飼っている猫も敏感なのである。
僕が悲しい時、寂しい時、苦しい時には猫は必ず僕にすり寄り、それから寄り添うように腰を落ち着け目を閉じる。
これがどれ程の心の支えになるかは、実際に体験してみると良い。
幸せホルモンやエネルギーが周辺を取り込んでくるよ!
人間が想像しうることは現実に起きる
自分の家に人を招く時、必ず猫がいる事を伝えている。近頃の人は猫アレルギーが多い。
症状は、見る限りきつそうだ。鼻水とくしゃみが止まらないらしい。
花粉症みたいな感じか。
花粉症も実は割と新しいアレルギーで、およそ5、60年前に遡る。
高度経済成長からの流れなのか、いけいけドンドンと加工のしやすい杉の木が植えられた。
しかしその需要は徐々に減り、わざわざ森を伐採し、大量に植林された杉の木は取り残されてしまうことになった。
今ではその忘れられた杉は日本中に花粉を過剰に撒き散らしている。
幸いなことに僕は花粉症ではない。
話ずれたが、
アレルギーかどうか一応聞くのだが、猫アレルギーの人が家に来ることをさほど問題にしていない。
ただ、花粉症ばりにくしゃみや鼻水出るのに猫に頬ずりしている猫アレルギーの人を見ると
「そんなに好きなんだ、猫のこと。。。」と思う時があるのだ。
杉は邪険にされるのに、猫は違う!!!と必ず皆言うよ。
実は猫アレルギーを解消するには1つ簡単な方法がある。
それは、猫の毛づくろいを手伝うことだ。
あちこち走り回り、かと思ったら部屋の隅っこや家具の下に隠れていたりする猫の毛は埃だらけ。
だから、その埃だらけの身体を綺麗にしてあげる。
これだけで幾分の猫アレルギーの人は解消されるだろう。ブラッシングもちろん、お風呂に入れてやるのも手だ。
基本的に猫は水は嫌いだが、中には風呂で気持ちよさそうに浸かる猫もいる。
無理やりではなく、そっと慣らせば受け入れてくれる。
そもそも猫アレルギーなんぞないのである。
飼っている僕は、もちろん猫アレルギーなどない。しかし一度だけ花粉症らしい症状を体験したことがあった。
鼻がムズムズし、目もグズグズになり、くしゃみも出る。
こりゃいかん。
と思う前に、単なる風邪だからほっときゃ治ると仕事をしていた。
しかし花粉症な姉から、「それは花粉症だな。」と診断されたので一応病院でアレルギー検査を受けた。
結果、花粉のアレルギーに少し反応しているみたいで花粉症の薬の処方。
「いよいよ俺も花粉症なのか。。。」と、
ここでこりゃいかん。と思った。
何が「いかん」のか?
毎年こんなに辛い目に合わなければいけないのか。ということ。
目のかゆみや鼻水は煩わしい。
皆さん薬を処方されてるみたいだけど改善されていそうに見えないし、薬は即効性だけで根治するのか疑問だし、、、
毎年花粉の時期を嫌悪することになるのが恐ろしくてたまらなかった。
花粉症が猫アレルギーみたいに先に説明したような方法で解消されるならいいのだが、大量に植え付けられて怒り狂っている杉をブラッシングしてなだめようと無駄な行為である。
春のうららかな季節、僕は残雪でスノーボードを楽しんでいる。
スノーボードをしていると、SNSなどでプロスノーボーダーやレジェンド的な人の投稿が増えるので見て楽しんでいるのだが、1つに花粉症についての投稿があった。
スノーボードは大自然を相手に楽しむスポーツだからか、山に対しての畏敬の念が強く見受けられる人が多い。
ジャンプして何回転もするような行為を練習するときは
「自分を信じないとできないよ」
と先輩から諭される。
「無理だと思ったらもうダメだから」
当たり前のような言葉だが、その言葉の奥深さ
と言ったらわかる人にはわかるだろう。
若い頃からヒゲモジャになるまで山と遊ぶと、考え方が大自然なのである。
「できないよ」と言った瞬間に、大自然に負ける事が決まってしまう。
そんな大先輩の花粉症に対する考え方は
「花粉症なんて錯覚だ。そう思って自分に花粉症じゃないって言い聞かせてたら発症しなくなった。」
というのだ。
一体全体、どこからそんな考え方に至ったのか...
仲間にこれを話しても「そんなに簡単じゃない」という。
しかし実際に僕は自分に言い聞かせた。
病は気から殺法で花粉症を殺す。
この話を信じない仲間は、信じていないから毎年花粉症を患う。
僕はというと、あれ以来発症していない。
あきらめたら、それまでなのである。
現代社会では少しでも「症状」があると思われたら「病気」のレッテルを貼られてしまう。
医者の言うことは科学的に実証されているから僕は病気なんだ。と思った瞬間に病気は発生する。
しかし、間違えてはいけないのは科学というのは完璧ではない。
あくまでも「可能性として極高い」だけなのだ。
そして科学というのは「反証」されることが大前提として掲げられる。
アインシュタイン、ニュートン、ダーウィンなどの超有名科学者も、ある事象に対して計算上その可能性が高いことを証明したにすぎない。
つまり、人間社会で「有り得ない」ことは「有りえる可能性」を必ず秘めている。
もしも人類が情報に惑わされることなく、自分の良心の中から湧き出る創造を大切にすれば、未来は明るい現実になる事だろうと信じている。
飼っているのではない、飼われているのだ。
残暑お見舞い申し上げます。
こんにちは。
暑い日が続いた夏、猫たちは窓に射し込む陽射しをモフモフの体でたくさん吸収していました。
こんなにあっちぃのに・・・
黒猫のそんな姿を見ると、熱を集めすぎて消えて無くなってしまうんじゃないかと心配して、日陰に転がしてみるものの、すっくと立ち上がり再び太陽を浴びる始末。
飼い主視点では体毛いっぱいの体を見ると暑苦しく感じて、猫が暑い国の動物であることを忘れてしまいます。
元祖の猫は砂漠の出らしいし。
そんなどうでも良さそうな事を考えながらゴロゴロしていらっしゃる猫さんたちのためにカリカリご飯をカラカラと入れていたんですけれども、
そこで「はっ!」としたんですよ。
私たち人間はペットを飼っていると勘違いしてるのではないか?
と。
私たち人間は毎日朝から働きに出、一日中せっせとお金を稼ぐわけで。
その間の猫たちといったら、夜行性もいいとこ朝は眠そうにゴロゴロと・・・
ちょいと起きて、餌を喰らい、またゴロゴロと・・・
昼飯も済んだことだし何をしようか?とゴロゴロしながら考え、窓際に座ってみたりして。
あ、鳥だ。威嚇してみよう。ああ、逃げられた。
(ちなみに僕はアパートの4階に住んでいます。)
鳥に逃げられちまったなぁ。下界でも眺めるとしよう。
おうおう、今日も人間さんは歩いてるな。暇だな、寝るか。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
きっとこんな1日を過ごしているんだろう。
仕事が終われば家に帰り、玄関で眠そうにあくびをしながら座って出迎えてくれる猫に(出迎えてくれるだけマシか。。)
「ただいま〜!おお猫ちゃん!帰ってきまちたよ〜!もふもふ!」と。
ニャーニャー
「おお、そうかい。お腹が空いているのかい。」
「ほれお食べ」
と餌をやりますわな。
猫はぽりぽり食いますな。
腹一杯。今日もご苦労。じゃあ寝るね。
とまたゴロゴロする猫。猫。猫。
しかし、飼い主な僕はそれを眺めて癒されるんですよね。
猫のトイレを掃除し、ブラッシングをし、餌をやり。
たまにこういう人がいます。
「猫が私たちに与えてくれる癒し、恩恵はすごいです。」と。
その通りだと思いますよ。可愛いし、触り心地も良いし、超癒し。
しかしご覧の通り、猫は貴族さながらな暮らし。
私たち飼い主はせっせと働き、まるで奴隷。
猫を眺めてると色々気づいちゃいますね。
搾取する側と、搾取される側。
猫のその手腕たるものおそるべし。
自然と搾取する側に居座っちゃえるその器量が僕は羨ましいです。
ニッチな猫
ニッチって....知ってます?
最近、「ニッチな感じだね」とか「ニッチだね〜」とかよく聞くけど、なんか人に聞きづらいから自分で調べてみた。
こういう、よく意味がわからない言葉を使っちゃう人って何なんだろうかと思うけど、自分も意味を知ってしまったら「何だかニッチだね〜」とか使うんだろうな。
ニッチニッチとよく聞くと、いつもどーしても芸人のニッチェを思い浮かべてしまって余計意味がわかんなくなっていたんだけど、しかしどうやら「ニッチ」も「ニッチェ」も同じらしい・・・。
もしも言葉の意味がわからなくても、使い方としては「ニッチだね〜」とみんなが使っているのだから、その言葉は形容詞なんだろうなとか思って適当に「そうだね〜」と言っておけば話はすんなりと流れるだろう。
「あ〜、それはニッチなんだね。」と納得しておけばいいのだ。
だから、意味を知っていなくたって飲み屋での会話は問題ない。
ただし、「君、ニッチだね〜!」はどうもしっくり来ない。
「ニッチ」と言う表現は建築関係の人の間でよく使われる。
建築関係者は、家を建てるときにニッチを作る。
そのニッチは何かと言うと、「壁に埋め込まれたような飾り棚」。つまり「ウォールイン飾り棚」だ。
家の中のこの窪みの部分がニッチであり、
このニッチがあるおかげで花を飾ることができるという優れた設計だ。
なぜなら余計な棚なんかを買わなくて済むのだから。
まぁ、優れているかどうかは設計者の手腕にかかっているだろうが・・・
このニッチ(壁の窪み)をふまえると飲み屋の会話での「ニッチだね〜」は何か違和感を覚える。
「まるで家の中の窪みみたいだね。」
「は??」となるだろう。
もしも、ニッチという言葉の意味はなんなんですか?と問われたら、実は「ニッチというのは隙間ということを意味します。」と大きくとらえた意味で説明される。
確かに、家の中のニッチは隙間を有効活用した設計だ。
ここ最近の飲み屋でビジネスマンから繰り出されている「ニッチ」はこの隙間という意味合いが強いだろう。
そう、「隙間産業」だ。
大企業が目を向けない専門的で細分化された市場や、誰も気が付かなかったような市場を掘り起こしてビジネスをする事を隙間産業という。更にはそれを「ニッチ市場」と呼ぶ。
だからビジネスマン同士が飲み屋で会話するのをよく聞くのだ。
「それはニッチなところに目を着けたね。」と言うような会話が繰り広げられる。
僕はこの記事で「ニッチ」というニッチな話題を一生懸命説明しているニッチな存在なのである。
しかし、「ニッチな猫」というタイトルに仕立て上げるには実はまだ足りていない。
ニッチはもう一つ重要な意味を持っている。
「生態的地位」だ。
読んで字の如く、生態系の中での地位、役割という意味である。
我々人間の生態的地位、植物の生態的地位、猫の地位。。。
全ての存在にニッチはあるはずで、役割があるはずだ。
この事は、文章だけではなかなか重要さを伝えるのが難しい。
先日亡くなってしまった僕の愛猫の生きていた意味はなんだったのだろうと、亡くなった時から考えていた。
動物病院の外に捨てられていた猫の里親として引き取ったその猫は、今まで飼った猫の中でも一番心の距離が近かったように思える。
外に出して遊ばせる事はない家猫で、ずっと僕と妻の側で生活していた。
名前を呼べば返事をし、「おいで」と言えばどこにいても走って来て喉を鳴らした。
家を留守にすると色んなところで粗相をして、愛情を表現していた。
ある日突然具合が悪くなり、2ヶ月の闘病生活の末に苦しんで亡くなってしまったその猫の最期を看取った時、深い悲しみに包まれた。
息をするのが苦しそうで、最期の一息は咳払いのようにやっとこ肺から息を出して死んでいった。
苦しそうだから、右手を握ったら、握り返してきた。そのまま動かなくなった。
握り返した猫の手はその形のまま固まり、死んでしまった事を現実と思えなかった。
小さな家がその猫にとっては世界の全てで、それは果たして幸せだったのだろうか。
車が行き交う危険な外の世界で生きて行かなかったのは幸せだったのか。
毎日のご飯は美味しかったのか。
僕たち夫婦と過ごせて幸せを感じていたのだろうか。
小さな猫が僕にとってはとても大きな存在で、心を支えてくれていた。
色々な感情と思いが次々と浮かんでは消え、、、悲しい気持ちが押し寄せていた。
なぜ最期があんなに苦しそうだったのだろう、、、、、
「ただそれだけなんだろうか?猫の存在というのは。」
「飼っていた猫はただそれだけの意味しかないのだろうか?」
「亡くなった猫は地球上で生命活動を終え、営みの何かを担ったのだろうか?」
答えが見つかるわけもなかった。
だからせめて、僕にとって素晴らしい何かを残してくれていると考え、その何かを受け取り生きていく事で、猫の存在価値を見つけようと思った。
世界にとってはもの凄いニッチな存在ではあるが、そのニッチを活かすことで宇宙や地球の営みにいい影響が出るように、僕が見つけてやろうと思った。
ニッチな猫が僕に与えてくれた悲しみで、、心を少し大きく強くしてくれた。
ニッチな猫のおかげで、悲しみという感情が人を大きく成長させることに気が付いた。
「慈しむ」とはこういうことかと、心のそこに刻み込まれた。
生命は生まれた時に死ぬ事が決まっている。
時間は止まる事はなく、「死」まで動き続ける。
有名な誰かの言葉で「神は細部に宿る」というのがある。
ニッチな存在にこそ愛は必要だ。
だから僕はニッチな猫に教えてもらった悲しみと慈しみの心に愛を注いでみる事にする。