三匹の猫

生まれた時から猫と暮らす筆者が送る猫ばか日記。

人間が想像しうることは現実に起きる

 自分の家に人を招く時、必ず猫がいる事を伝えている。近頃の人は猫アレルギーが多い。

 症状は、見る限りきつそうだ。鼻水とくしゃみが止まらないらしい。

 

花粉症みたいな感じか。

 

 

花粉症も実は割と新しいアレルギーで、およそ5、60年前に遡る。

高度経済成長からの流れなのか、いけいけドンドンと加工のしやすい杉の木が植えられた。

しかしその需要は徐々に減り、わざわざ森を伐採し、大量に植林された杉の木は取り残されてしまうことになった。

 今ではその忘れられた杉は日本中に花粉を過剰に撒き散らしている。

 

幸いなことに僕は花粉症ではない。

 

話ずれたが、

 

アレルギーかどうか一応聞くのだが、猫アレルギーの人が家に来ることをさほど問題にしていない。

ただ、花粉症ばりにくしゃみや鼻水出るのに猫に頬ずりしている猫アレルギーの人を見ると

「そんなに好きなんだ、猫のこと。。。」と思う時があるのだ。

 

杉は邪険にされるのに、猫は違う!!!と必ず皆言うよ

 

実は猫アレルギーを解消するには1つ簡単な方法がある。

 

それは、猫の毛づくろいを手伝うことだ。

 

あちこち走り回り、かと思ったら部屋の隅っこや家具の下に隠れていたりする猫の毛は埃だらけ。

 だから、その埃だらけの身体を綺麗にしてあげる。

 

これだけで幾分の猫アレルギーの人は解消されるだろう。ブラッシングもちろん、お風呂に入れてやるのも手だ。

 基本的に猫は水は嫌いだが、中には風呂で気持ちよさそうに浸かる猫もいる。

 

無理やりではなく、そっと慣らせば受け入れてくれる。

 

そもそも猫アレルギーなんぞないのである。

 

 

飼っている僕は、もちろん猫アレルギーなどない。しかし一度だけ花粉症らしい症状を体験したことがあった。

 鼻がムズムズし、目もグズグズになり、くしゃみも出る。

 

こりゃいかん。

 

と思う前に、単なる風邪だからほっときゃ治ると仕事をしていた。

 

しかし花粉症な姉から、「それは花粉症だな。」と診断されたので一応病院でアレルギー検査を受けた。

 

結果、花粉のアレルギーに少し反応しているみたいで花粉症の薬の処方。

 

「いよいよ俺も花粉症なのか。。。」と、

 

ここでこりゃいかん。と思った。

 

何が「いかん」のか?

毎年こんなに辛い目に合わなければいけないのか。ということ。

目のかゆみや鼻水は煩わしい。

 

皆さん薬を処方されてるみたいだけど改善されていそうに見えないし、薬は即効性だけで根治するのか疑問だし、、、

 

毎年花粉の時期を嫌悪することになるのが恐ろしくてたまらなかった。

 

花粉症が猫アレルギーみたいに先に説明したような方法で解消されるならいいのだが、大量に植え付けられて怒り狂っている杉をブラッシングしてなだめようと無駄な行為である。

 

春のうららかな季節、僕は残雪でスノーボードを楽しんでいる。

 

スノーボードをしていると、SNSなどでプロスノーボーダーやレジェンド的な人の投稿が増えるので見て楽しんでいるのだが、1つに花粉症についての投稿があった。

 

スノーボード大自然を相手に楽しむスポーツだからか、山に対しての畏敬の念が強く見受けられる人が多い。

 

ジャンプして何回転もするような行為を練習するときは

「自分を信じないとできないよ」

と先輩から諭される。

 

「無理だと思ったらもうダメだから」

 

当たり前のような言葉だが、その言葉の奥深さ

と言ったらわかる人にはわかるだろう。

 

若い頃からヒゲモジャになるまで山と遊ぶと、考え方が大自然なのである。

 

「できないよ」と言った瞬間に、大自然に負ける事が決まってしまう。

 

そんな大先輩の花粉症に対する考え方は

 

「花粉症なんて錯覚だ。そう思って自分に花粉症じゃないって言い聞かせてたら発症しなくなった。」

 

というのだ。

 

一体全体、どこからそんな考え方に至ったのか...

 

仲間にこれを話しても「そんなに簡単じゃない」という。

 

しかし実際に僕は自分に言い聞かせた。

病は気から殺法で花粉症を殺す。

 

この話を信じない仲間は、信じていないから毎年花粉症を患う。

 

 

僕はというと、あれ以来発症していない。

 

あきらめたら、それまでなのである。

 

現代社会では少しでも「症状」があると思われたら「病気」のレッテルを貼られてしまう。

 

医者の言うことは科学的に実証されているから僕は病気なんだ。と思った瞬間に病気は発生する。

 

しかし、間違えてはいけないのは科学というのは完璧ではない。

あくまでも「可能性として極高い」だけなのだ。

 

そして科学というのは「反証」されることが大前提として掲げられる。

 

アインシュタインニュートンダーウィンなどの超有名科学者も、ある事象に対して計算上その可能性が高いことを証明したにすぎない。

 

つまり、人間社会で「有り得ない」ことは「有りえる可能性」を必ず秘めている。

 

もしも人類が情報に惑わされることなく、自分の良心の中から湧き出る創造を大切にすれば、未来は明るい現実になる事だろうと信じている。